この国にいること

年が明けて仕事も再開し、ガレットドロワも食べたし、年始のご挨拶でもと思った矢先、シャルリー・エブド襲撃事件が起き、翌日モンルージュで警察官が射殺され、その翌日にはスーパーマーケットでの立て篭り事件と立て続けに起きました。未だに言葉が出てきません。

多民族多宗教の国で、外国人として生活し今年で10年。文化や道徳、そして哲学観念において何度も壁にぶつかりました。ただそれは良し悪しではなく、吸収の時間だったと思っています。その度に手を差し伸べてくれたのは、家族であり、多国籍な友人であり、生徒であり、電車の隣に座ったマダムであり、そして一見怖いお兄さん風な若者だった事もあります。

故郷から離れた地で、自らの弱さと孤独を感じる一方、人間味を感じさせてくれたのもこの国。親しみを感じ始めたこの地で、 暴力への脅威はもとより、何よりも人間の怖さを垣間見たような気がして、考える度に息が詰まります。今の時点では考えても考えてもどこにも行き着かないのですが、これは答えを探すのではなく、考え抜く問題なのだと思っています。

また報道では表現の自由についての記事が多かったように思うのですが、私自身はどうしてもスーパーでの立て篭り事件を、もし日本と近隣諸国と摩擦によって、犯人がオペラ界隈の日本食品店で日本人を人質とっていたら・・・と考えて止みません。自身を「人種」という括りで見られるということがどういう事なのか。

何において自由平等博愛なのか。死とはそして平和とは。パリ全体で警察と憲兵がパトロールを強化し、公共の交通機関にもセキュリティが増えている状態です。武装している彼らを見ると安心していいのか、怖がるべきなのか分からなくなりますが、今のところ1日に1回は「不審物による電車の遅れ」に出くわすので、やはりパトロールが必要な警戒レベルであることは確か。それが愉快犯なのか、本気のものなのかは報道されませんが、やはり乗客もピリピリしていますし、今回の事件で国内外で様々な勢力が動いているので、それに対しても神経が尖り、また心が痛みます。

消化しきれない状態で、淡々と仕事だけをこなして一週間ほど経ちましたが、ダライ・ラマ法王が発した以前の平和へのメッセージ(2010年ニューヨークタイムズに掲載されたもの)を先日読み、やっと深く呼吸ができるようになりました。今回の事件で人々の怒りを目の当たりし、平和という言葉が直ぐに出てこなかった事に少し恐怖を感じていました。勝ち取るものでもなく、与えられるものでもなく、築いていく平和が人々の心を癒してくれますように。全ての犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

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